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常設展 『再発見』みちでつづる東村山の歴史

更新日:2011年2月15日

東村山ふるさと歴史館リーフレット

はっくくん

江戸時代の新田開発によって発展してきた武蔵野の村むら。
そのなかで東村山市は、古代の東山道武蔵路や中世の鎌倉街道が通ったことで、ちょっと違う特徴があります。
入口にある「ヒストリーマップ」が解説ビデオと連動して、時代と“みち”を説明します。
再発見/みちでつづる東村山の歴史。みちを通してみた、東村山の歴史にふれてください。

原始:けものみちをたどって

東村山では多くの旧石器から縄文時代の遺跡が発見されています。この頃から人々は、道をつかって黒曜石や塩を運んだりしています。

原始時代についての展示の写真

現在、東村山で見つかっている一番古い人々の生活の跡は、今から約2万年前の旧石 器時代(先土器時代)のものです。 となりの小平市などからは、約3万年も前の石器が見つかっており、東村山にもそのころから人々が生活していた可能性があります。 旧石器時代の人々は、まだ土器を作ることを知りませんでしたが、ナウマンゾウやオオツノジカなどの動物を狩る槍や、その肉や骨を切ったり削ったりするいろいろな石の道具を、もっていました。

笹塚での暮らし

 縄文時代は温暖な気候と豊富な食べ物に支えられ、たくさんの遺跡が見つかっています。 集落には数軒の住居や、納屋や物置の役目をした、いろいろな穴があります。中央には広場があり、墓地も決められていて、秩序ある共同生活を営んでいたことが、笹塚遺跡の発掘調査からわかります。
 道具の種類も豊富で、たくさん発掘される打製石斧(だせいせきふ)(土掘り具)でヤマイモを掘ったり、石皿で木の実を粉にしたり、土器でスープなどをつくり、食生活も豊かになったのです。

みじかい命

 縄文時代の人々の命は短いもので、30年ほどといわれています。なかでも幼い子どもたちが成長するのは大変なことでした。笹塚遺跡(ささづかいせき)から発見された、口の部分を下にして埋められていた大きな甕(かめ)は、幼くして亡くなった子どものお棺です。
 墓からは土器や石器、また玉やペンダントなどの装飾品が発見されることもあります。縄文時代の人々は、家族が亡くなったときはていねいに葬ったのです。他の地域からは、きちんと埋葬された犬も発掘されています。

多様になる生活と生産

 縄文時代も後期に入ると、遺跡の数が減ってきます。そして2千数百年前の晩期になると市内でも数か所になってしまいます。
 日向北遺跡(ひなたきたいせき)は、この時期の貴重な遺跡です。
 遺跡からは、土偶(どぐう)石剣(せっけん)など祭祀(さいし)に使ったと思われるものもや、いくつかの装身具も出土しています。また、多量につくられた石鏃(せきぞく)(矢じり)は生産の変化を物語っており、珍しい製塩土器(せいえんどき)も見つかりました。
 遺跡数が減る理由は、気候の寒冷化ともいわれますが、はっきりとはわかっていません。

古代:都からのみち

古代についての展示の写真

7世紀、大和と地方を結ぶ官道がひかれます。東村山にも東山道武蔵路が通り、様々な人や物が往来するようになりました。

東山道が通る

 7世紀もなかばを過ぎたころ、小さな集落の点在する東村山に、幅が12mもある大きな道である東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)が通りました。
 所沢の台地から降りてきて、国分寺や武蔵国府を一直線にめざすこの道は、律令制により中央と地方を結ぶ官道のひとつで、上野国府と武蔵国府とを結んだものなのです。
 その後、武蔵国は東海道のグループに所属替えになりましたが、この道は上野国へ向かう重要な道として、東村山にさまざまな影響を与えていったのです。

水田をつくる

 東山道を都からの人々が往き交うようになったころ、市内のあちこちに小さな集落がふえてきました。場所は、川沿いの湿地に面したところが多く、狭い谷間を利用して小さな水田を耕していたようです。
 武蔵国分寺には立派な七重塔がそびえ、国府には瓦葺き(かわらぶき)の大きな建物が並んでいましたが、多くの人々は縄文時代同様の、地面を掘りくぼめた小さな家に住んでいました。
 この時期の市内の代表的な遺跡には、日向北遺跡や下沢遺跡があります。

武士団の登場

 平安時代も末になると律令制はくずれ、世の中は混乱しました。それまで馬牧(ままき)(馬の飼育場)の経営や、荘園(しょうえん)の警護にあたっていた武士の集団が各地で力をつけはじめ、東国では蝦夷(えぞ)との戦いのために、騎馬を基本とした東国武士が登場しました。
 武蔵国では他の地域にくらべ大きな武士団にはならず、武蔵七党(むさししちとう)と呼ばれる中小の武士団があちこちで勢力を競っていました。
 狭山丘陵周辺は、村山党(むらやまとう)という武士団の勢力下にあったとされています。

中世:いざ鎌倉へのみち

中世についての展示の写真

鎌倉に幕府ができると、いざ鎌倉の道として鎌倉街道が通ります。幕府を攻め滅ぼした新田義貞もこの道を通っていきました。

鎌倉街道と久米川

 鎌倉時代の東村山には、北関東の有力な武士団の根拠地と幕府のある鎌倉を結ぶ、鎌倉街道の上道(かみつみち)が通りました。諏訪町の一部は西宿と呼ばれ、また久米川町には上宿や新宿という地名が残されていることから、日蓮上人(にちれんしょうにん)が佐渡島に流される途中に宿泊した久米川宿があったと推定されます。
 また久米川周辺は、1333年(元弘3)の新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻めなどでも戦場となった軍事的に重要な地域で、多くの戦乱がくりひろげられました。

救いをもとめる人々

 戦乱の続いた中世、人々は目の前の苦しみや先の見えない時代に不安を抱き、さまざまな形で救いをもとめました。板碑(いたび)は、こうした時代を反映したものです。
 当初は、亡くなった人への追善供養のための板碑でしたが、やがて来世の幸せを願う逆修板碑(ぎゃくしゅいたび)や、信仰をともにする人々全体の安穏を願った結衆板碑(けちじゅういたび)もつくられました。
 またこの時期に、和歌山県熊野地方を本拠地とする熊野信仰も活発な布教活動により、東村山周辺にまで伝えられています。

近世:江戸へのみち

近世 江戸時代についての展示の写真1

江戸時代になると様々な街道や水運が整備され、東村山も江戸の経済流通圏に組み込まれました。

新しい支配

 江戸幕府(えどばくふ)は、強固な支配体制をつくるため幕藩体制(ばくはんたいせい)を徹底し、参勤交代制(さんきんこうたいせい)によりさらに中央集権的な国家をめざしました。
 年貢などが経済基盤なので、幕府や諸藩はなるべく多くとりたてるために、農民を厳しく統制しました。村を基本的な行政単位とし、名主などの村役人を置き、村民同士には五人組という制度で、連帯責任をもたせたのです。
 参勤交代は政治面以外にも、交通を整備し、また流通もさかんにして、江戸に都市化をもたらしたのです。

新田開発と生産

 幕府の新田開発政策は、年貢をふやし小農民を自立させる目的で進められました。
 武蔵野の新田開発は、玉川上水からの分水により飛躍的に進みました。享保の改革で新田開発が強行されると、その範囲は肥料供給源である秣場(まぐさば)にまでおよんだため、農民の抵抗にあい行きづまります。
  一方で、秣場の減少は農村に金肥(きんぴ)の普及を早め、貨幣経済へと組み込んでいくことになったのです。そして、水車をもち穀類を粉にして、さらに財産をふやす者もいました。

お鷹場

 1633年(寛永10)尾張徳川家は、将軍家より江戸近郊を鷹場とすることが許され、その範囲に東村山も含まれていました。 複雑な入り組み支配の上に、さらに尾張徳川家の支配も受け、人足を出したり、鷹狩りに不都合なことはしてはいけないなど、村の負担は大変なものでした。
 5代将軍綱吉(つなよし)の生類憐みの令により、いったん鷹狩りは廃止となりますが、享保年間(1716から1736年)には再開され、幕末まで続いたのです。

天明の飢饉と村

近世 江戸時代についての展示の写真2

全国的にひろまった天明の飢饉は、特に奥羽地方の悲惨さについて知られていますが、関東地方も例外ではありませんでした。
 現在とくらべ、安定した収穫量を維持できなかった当時、天候不順は大敵でした。東村山周辺では麦が主な作物だったので、「雨年に豊作なく、旱魃に不作なし」といわれ、冷夏や洪水は、収穫量に大きな影響を与えていたのです。
 その上、1783年(天明3)に浅間山が噴火し、天候はますます悪化し大飢饉となったのです。

農民と一揆

 たび重なる凶作に生活が困窮している上、米価高騰に耐えかねた農民は、一揆や打ちこわしといった行動に出るようになりました。
 特に、1866年(慶応2)に起こった打ちこわしは、たちまち武蔵国と上野国にひろがり近世最大規模の一揆へと発展しました。
 これに対し幕府側は、農兵を組織して対抗しましたが、全国各地に起こった一揆や打ちこわしは、一時的な暴動に終わることが多かったにもかかわらず、ついには徳川幕府崩壊の決定的な原動力になったのです。

農民の成長と文化

農村への貨幣経済の浸透は、農民を文化の担い手に成長させました。
 五街道の整備は、それまで命がけだった旅を容易にし、経済力は、旅を楽しむゆとりを生みました。その顕著な例として、お伊勢参り、お蔭参りが挙げられ、近世以前の信仰とくらべると、娯楽性の加わっていることがわかります。
 また、寺子屋などで読み書きを習ったり、俳諧をたしなむようになったりと、生活に余裕がでてきたのです。

民俗:東村山の民俗:雑木林とくらし

東村山の民族についての展示写真

武蔵野の風景として、雑木林は広く親しまれてきました。その雑木林を、東村山ではヤマと呼んでいます。しかし高さのある山のことではなく、平らなところに点在する平地林のことを、指しているのです。市内の全生園(ぜんしょうえん)あたりに、今もその姿を見ることができます。このヤマの多くは、近世における新田開発とともに、人工的につくられたものです。なぜ必要だったのでしょう、どのように利用されてきたのでしょう。少なくなりつつあるヤマを、振り返ってみましょう。

近代:新しいみち・鉄道

近世 鉄道についての展示写真

明治22年、五か村が合併して東村山村が誕生しました。そして、川越鉄道の開通によって人や物が素早く運ばれるようになりました。

東村山の誕生

 明治維新直後の地方制度は一定せず、現東村山市域は韮山県や品川県などに属しました。
 1871年(明治4)の廃藩置県(はいはんちけん)により廻り田(めぐりた)野口(のぐち)久米川(くめがわ)南秋津(みなみあきつ)の4村は神奈川県に属し、江戸時代から入間郡に属していた大岱村(おんたむら)は入間県、熊谷県、埼玉県と変転を重ね、ようやく明治13年に神奈川県に編入されました。
 その後、廻り田、野口、久米川、大岱村の4ヵ村組合などを経て、1889年(明治22)の新しい地方制度の発足で、南秋津村を加えて東村山村が誕生しました。

停車場ができる

 明治に入り新しいみちとして、多摩地域にも甲武鉄道(現中央線)が開通しました。
 1894年(明治27)には、川越と国分寺を結ぶ川越鉄道(現西武線)が一部開通し、現在の東村山駅北に、柳瀬川鉄橋工事のため仮の停車場ができました。
 翌年、川越鉄道が全線開通し、現在の位置に東村山駅が開設されました。そのため川越鉄道で国分寺に行き、甲武鉄道で東京へ行く新しい流通経路が生まれ、多摩地域や埼玉県西部は、経済的に大きく変化しました。

町場ができる

 村山貯水池(多摩湖)は、東京市への生活用水を補うため1916年(大正5)に着工され、1927年(昭和2)に完成しました。
 第一次世界大戦後の不況のなかで、働き場のない人たちは、貯水池工事のおかげで経済的に救われました。当時、東村山駅周辺は資材運搬の要所で、現在の駅西口には旅館や劇場、カフェーなどができて大変にぎわい、東村山の発展のもととなりました。
 その後、貯水池は観光地化され、人々の憩いの場として親しまれています。

帰らなかった人々

 昭和になると、日本と大陸との緊張関係は盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)などを引き起こし、ついには第二次世界大戦へと拡大していきました。
 赤紙と呼ばれる召集令状(しょうしゅうれいじょう)によって、多くの人々が戦地へおもむいて行き、残された人々の生活も、「ぜいたくは敵だ」というスローガンのもと、日用品の切符制や米の配給制がしかれ、厳しく統制されました。
 そのような状況下で両者をつなぐものは、検閲をくぐり抜けた、軍事郵便や慰問袋だったのです。

現代:変わってゆくみちと街

現代 変わりゆく道と町についての展示写真

戦争が終わり、東村山の町や道も大きく変わりました。雑木林と畑ばかりの村から都市へと発展を遂げたのです。

東村山の変化と発展

 戦争が終わり、人々は復興に向け努力して来ました。東村山でも、海外から引揚げて来た人々を主な対象とした、公営住宅の建設などが進みました。
 1960年(昭和35)代の高度経済成長期に入ると、交通の便のよい東村山は、都心部からの新たな住民により急速に人口が増加しました。
わずか10年で人口は3倍近くにふくれ上がるほどで、ついに町から市になりました。
 さらに道路や公共施設、学校などの整備が進み、ベッドタウンへと変化しました。

未来へおくるもの

 狭山丘陵の麓にある東村山は、豊かな自然に恵まれ、雑木林などの緑もたくさんあり、古くからさまざまな生活が営まれてきました。
 しかし都市化とともに東村山の生活は大きく変わり、その風景もまた変わってきました。物質的には豊かになりましたが、失ったものもあるのではないでしょうか。
 改めて身の周りを見渡して見ると、まだまだ、小さな自然や昔から大切に伝えられてきた文化遺産が残されています。もう一度、これらのことについて考えてみませんか。

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