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東村山市の歴史

更新日:2013年5月17日

 東村山市にはじめて人が足を踏み入れたのは今から約2万年前の旧石器時代のことです。縄文時代には水の得られる狭山丘陵地帯のふもと、前川・北川そして柳瀬川などに沿って多くの遺跡が残されています。発掘調査の結果、住居址や多くの土器・石器などが出土しています。

 やがて奈良、平安時代になると北川・柳瀬川の低湿地に沿って、多くの集落ができました。住民はわずかな水田と小規模な畑によって、現在の多摩湖・廻田・諏訪・野口・久米川・秋津町などで生活を営んでいたようです。4世紀のころから多摩地域にも大和文化の影響があらわれ、7世紀半ばから8世紀(大化から大宝年間)になると武蔵国府中(府中市)に国府がおかれ、東村山市域を南北に貫いて上野国と武蔵国を結ぶ官道「東山道」が通じていました。

 鎌倉幕府が成立すると「いざ鎌倉」への道として各地の道路が整備され、東村山地域を貫く道は鎌倉街道の中でも「上ツ道」として、久米川は宿駅として軍事的・経済的にも重視されたようです。

 1590年、徳川家康の江戸入りにともない、それまでの柳瀬川・前川・北川ぞいの古村は次々と南の原野を拓き発展していきました。承応3年(1654)には玉川上水が、承応4年には野火止用水が開さくされ、享保年間以降一面の原野であった武蔵野の新田開発がすすみました。東村山地域は近世を通じ山口領に属し、幕府直轄の天領や地頭領、寺領の分配支配となっていました。19世紀初頭、文化・文政のころは、多摩郡に属した南秋津村114戸、久米川村186戸、野口村136戸、廻り田村120戸、宅部村42戸、そして入間郡に属した大岱村は70戸で、江戸近郊の農村として幕末を迎えます。

 明治維新直後の地方支配制度は流動し、東村山市域も韮山県、品川県など転々として明治5年(1872)南秋津、久米川、野口、廻り田村は神奈川県に、そして埼玉県に属していた大岱村も明治13年には神奈川県に移りました。同17年に野口、廻り田、久米川、大岱の4ヶ村組合が誕生しました。明治22年には南秋津村を加え、東村山村が成立しました。これが現在の東村山市の母体になっています。

 その後、昭和17年(1942)に人口1万852人で町制を施行。昭和39年(1964)4月には人口6万6,012人になり、東京都で13番目の市として第一歩を踏み出しました。

 現在、私たちの東村山市は、近郊住宅都市として「人と人 人とみどりが響きあい 笑顔あふれる 東村山」をめざし努力を続けています。

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