○東村山市の沿革

原始の東村山

東村山市は、荒川と多摩川の間、武蔵野台地のほぼ中心部に位置している。

市内で最も古い遺跡は、日向遺跡(廻田町)、笹塚遺跡(秋津町)、運動公園遺跡(恩多町)等で、先土器時代の終末、今から一万数千年前のものである。

続く縄文時代の遺跡は前川、後川(北川)、柳瀬川流域に多く、なかでも、敷石住居の発見された「廻田石器時代遺跡」(現在は消滅)は東京都旧跡に指定され、又、日向北遺跡(多摩湖町)は多摩地域でも数少い縄文時代晩期の遺跡として知られている。

弥生時代の遺跡は発見されていない。古墳時代の遺跡としては、上記の日向北遺跡の内から住居跡がみつかっている。

古代の東村山

律令制度のもとで国郡制がしかれると現在の府中市に武蔵国府がおかれ、東村山地域も律令体制に組み込まれる。奈良・平安時代に入ると狭山丘陵に沿って流れる河川ぞいに小さな集落が点在する。このあたりは水田も小規模であり、むしろ狭山丘陵八国山、柳瀬川をひかえ、入間郡・多摩郡の郡境の地として重視されたようである。

東村山市を南北に貫いて武蔵国府(府中市)と上野国府(前橋市)を結ぶ官道が通り、天長10年(833)には旅人の救護施設として「悲田処」が設けられた。この頃の遺跡としては、多摩湖町から出土した2メートル余りの瓦製の五重塔があり、東京国立博物館に保管展示されている。

延喜19年(919)には武蔵国府が襲われ、天慶2年(939)には平将門の乱をはじめとして古代末期の混乱の時代となり、武蔵七党と呼ばれる武士団が興り、東村山付近は「村山党」の勢力圏にあったとされる。

中世の東村山

鎌倉幕府が開かれるとともに、かつての官道は鎌倉街道「上の道」として整備され、久米川(久米川・諏訪町の一部)は宿駅として軍事的にも経済的にも重視された。文永8年(1271)佐渡に配流途中の日蓮上人もこの久米川宿に泊っている。その後鎌倉幕府滅亡の戦乱の中で一帯は新田義貞の鎌倉攻め元弘3年(1333)をはじめ多くの戦場となった。「久米川古戦場」(諏訪町)は、東京都旧跡に指定されている。

又、この時代のものとして、国宝「正福寺千体地蔵堂」や重要文化財「元弘の碑」等の文化遺産が残つている。

室町時代には、武蔵守護代大石氏の支配下にあつた。やがて戦国時代に至ると、小田原北条氏の支配が関東一円に及び、所沢市が付近の商業の中心となり、又、徳川家康が江戸に入り中山道が幹線として使われるようになり、久米川の宿としての役割は終わることとなる。

近世の東村山

江戸初期の東村山は、久米川宿周辺、柳瀬川ぞいに久米川、南秋津、狭山の谷あい近くに廻田、野口の村々があり、17世紀半ばに大岱村が古新田として開発された。

承応4年(1655)に野火止用水が開削され、享保年間以降は原野の開拓もすすんだ。

東村山地域は山口領に属し、幕府直轄の天領や地頭領、寺領の分配支配下におかれ、又、一帯が尾州徳川家の御鷹場となつていたこともあり、種々の制約と負担に苦しんだ。

19世紀初頭の文化・文政の頃は、南秋津村114戸、久米川村186戸、野口村136戸、廻田村120戸が多摩郡に属し、大岱村70戸は入間郡に属し、それぞれ、江戸近郊の農村として明治時代を迎えることとなる。

近代の東村山

明治維新後の地方支配制度は、流動したが、明治17年(1884)に野口、廻田、久米川、大岱の4か村組合がつくられ、同22年5月、市町村制施行によつて南秋津村を加え東村山村が誕生し神奈川県に所属した。村名は、村山地域の東ということで「東村山」とされたようである。明治26年になり、三多摩地域は神奈川県から東京府に編入となり、同時に東村山村は北多摩郡に属した。近郊農村としての成長を続け、昭和17年(1942)に至り、人口10,852人、世帯数1,905をもつて町制を施行した。

現代の東村山

第2次世界大戦の敗戦により、東村山も新しい地方自治制度のもとで復興を開始する。都心との交通の便の良さから、従来の農村型から公営住宅の進出とともに都市型へと飛躍的に発展し、昭和39年(1964)4月1日、人口66,012名、19,863世帯をもつて市制を施行した。同年11月には、市内を13町に再編する町名整理を実施した。

その後も典型的な住宅都市として、都市基盤整備、諸文化施設の充実などをはかりつつ、昭和47年には人口も10万人を超え、多くの文化遺産や豊かな緑をいかしながら発展を続けている。

東村山市の沿革

 種別なし

(平成11年1月1日施行)

体系情報
第1編 規/第1章
沿革情報
種別なし