更新日:2021年2月18日
「心を和ませ安らぐことのできる風景」や「東村山らしさを醸し出す行事の情景」など、公募による市民の皆さんの推薦をもとに、東村山青年会議所の協力を得て、平成6年に市制30周年を記念して選定されました。
狭山丘陵を背景にした自然公園で、新東京百景に選ばれています。豊かな水と緑に囲まれ、春には桜、初夏には200種類8,000株(10万本)の花菖蒲が咲き乱れ、秋には曼珠沙華が見られます。また、園内には多くの野草が自生しており、池やその周辺には多くの野鳥が集まり、羽を休める姿を見ることもできます。(野口町)
標高89.4メートルの狭山丘陵の東端にある山です。その頂きから、上野(かみつけ)・ 下野(しもつけ)・ 常陸(ひたち)・ 安房(あわ)・相模(さがみ)・駿河(するが)・ 信濃(しなの)・ 甲斐(かい) の八国が見渡せることから、その名が付いたとされています。
新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉討伐や武蔵野合戦などが行なわれた場所で、山のふもとには久米川古戦場碑があり、山頂には将軍塚が残されてます。(諏訪町2丁目、3丁目他)
広大な旧通産省機械試験場の跡地が生まれ変わり公園になりました。多目的広場、バードサンクチュアリ、ゲートボール場、せせらぎの滝などがあり、四季を通して市民の憩いの場になっています。また、毎年4月の「春のみどりの祭典」をはじめとした市の催し物や、各種団体の催し物会場としても利用されています。(富士見町5丁目4番地)
江戸時代、玉川上水の分水を利用した水車は各地に設けられ、市内では大岱村(おんたむら)に野火止用水を利用した水車が設けられました。水車は小麦等の穀物を製粉し商品価値を高め、製品は江戸に送り出されました。現在の水車苑はこうした歴史を現在に伝えるために平成3年に復元されました。(恩多町3丁目32番地)
多摩湖に隣接した都立公園です。公園はプラタナスやマツ、サクラなどが繁り、花見シーズンは、公園を中心に大勢の見物客でにぎわいます。マラソンや初日の出のポイントでもあります。
1655年(承応4年)川越城主の松平伊豆守信綱(まつだいらいずのかみのぶつな)の命で、野火止台地や武蔵野台地のかんがい用水路として造られ、別名、伊豆殿堀(いずどのほり)ともいわれています。用水敷にはエゴノキ、コナラ、ブナなど武蔵野の雑木林が残っており市民の憩いの場になっています。昭和49年に東京都歴史環境保全地域に指定されています。(恩多町他)
武蔵村山市の野山北公園に源を発し、東大和市・東村山市を流下して清瀬市中里で柳瀬川(やなせがわ)に合流する延長約15キロメートル(市内約6キロメートル)の一級河川であり、武蔵野の代表的な野川です。河川敷の緑道化やミニ公園化の整備など水を軸とした緑のネットワーク形成を推進しています。 (下堀橋周辺)
野火止用水にケヤキが勢いよく根を延ばして、橋のように流れをまたいでいるので、俗に「万年橋のケヤキ」といいます。昔はケヤキの根を実際に橋として利用していました。 昭和44年に市の天然記念物に指定されています。また、昭和49年には、市の木として「ケヤキ」が制定されています。(恩多町1丁目1番地)
多磨全生園は明治末期、ハンセン病の療養施設としてつくられました。当時は、ハンセン病の治療は難しいといわれていましたが、戦後開発された薬により完治するようになりました。園内には、豊かな緑や歴史的建造物、史跡等が数多く残されており、国立ハンセン病資料館などを中心に年間3万人以上が訪れています。広大な緑の敷地は桜の名所でもあり、多くの市民に親しまれています。(青葉町4丁目1番地)
クヌギ、ナラ、松などが青々と覆っている自然に恵まれた環境の中に東京都多摩北部医療センター、東京都東村山老人ホームなどの病院・療養施設があります。(青葉町1丁目7番地)
ライシャワー記念館は市内でみられる貴重な明治時代の洋風建築です。昭和39年に港区芝白金の明治学院から保存のため移築されたものです。名前の由来は、もと駐日大使であったライシャワー氏の父親が明治学院で教鞭をとっていた際に居住していたことによります。(富士見町1丁目12番地、明治学院内)
【注記】現在は公開しておりません。
東村山の玄関口です。昭和46年に東村山駅前東口広場として完成しました。出初式や本町さくらまつり、市民納涼の夕べなども行なわれています。(本町)
易経(えききょう)の一節「観乎天文以察時変(テンモンヲミテモッテジヘンヲサッス)観乎人文以化成天下(ジンブンヲミテモッテテンカヲカセイス)」から化成の校名が撰され、明治8年1月に諏訪神社境内に化成小学校として開校しました。多摩地区では最も古い学校で、昭和29年に八坂小が開校するまで東村山で唯一の小学校でした。
この校地の一画に、明治23年から村役場が置かれ、大正11年まで行政の中心でした。(諏訪町1丁目4番地)
狭山・境緑道と呼ばれ、狭山丘陵と武蔵野市をほぼ一直線に結ぶ約10キロメートルの道で、多摩湖の水を武蔵境の浄水場へと流す水道施設です。 その上が、緑の豊かな散歩道として整備され、「水の道」として生まれ変わりました。(多摩湖町他)
市民生活に潤いや安らぎが得られるようハナミズキの街路樹が整備されました。近くには鍛冶の神様であるカナヤマノヒコ等を祭神とする金山神社があります。江戸期には廻(めぐ)り田村の下組の鎮守でしたが、明治に入り村の鎮守となりました。金山の名前のとおり、鍛冶職小町大膳左京太夫(かじしょくこまちだいぜんさきょうだゆう)がその屋敷に祀ったとの伝承があります。(廻田町)
1989年(平成元年)に久米川駅南口が、“東京都モデル商店街事業”として都の指定を受けて生まれ変わり、公募により「モザーク久米川」という愛称がつけられました。人々が集まり市民情報が交換できるような機能をもった、ふれあいショッピングタウンを目指しています。(栄町)
野球場(トラック競技場と兼用)、テニス場、プールがある総合スポーツグランドであり、昭和50年、恩多町に開園されました。秋になると13町対抗の市民大運動会が開かれ、多くの市民が集まります。(恩多町)
緑豊かな小平霊園は、東村山市と小平市にまたがっており、広さ65.3ヘクタール、昭和23年5月に開園しました。園内には、黒目川の水源となった湧水池などもあり、 昔ながらの雑木林は様々な植物の宝庫であり、野鳥も多く、いまでは多くの人々の静かな憩いの場所となっています。(萩山町5丁目8番地)
萩山町はかつてその大部分が雑木林で、秋になると萩の花が咲き乱れたといわれています。現在は、松林に囲まれた閑静な住宅街で、お年寄りの集う憩いの場にもなっています。(萩山町2丁目)
市内の生産者による農畜産物展、市内商工業者による商工業展、消費者団体による消費生活展、文化団体、福祉団体による文化・福祉展など多彩な出展のある市内でもっとも大きなイベントとして市民に親しまれています。昭和37年に「産業振興共進会」として開催され、昭和59年の第23回から「市民産業まつり」と改称しました。
境内の地蔵堂は都内の貴重な国宝建造物です。鎌倉の円覚寺舎利殿(えんがくじしゃりでん)とともに禅宗様建築の代表的遺構で、昭和9年の改修の際に発見された墨書銘(ぼくしょめい)によると、室町時代の1407年(応永14年)建立とされています。堂内には江戸時代の地蔵信仰により、多くの小地蔵尊像が奉納されています。(野口町4丁目6番地)
臨済宗大徳寺派(りんざいしゅうだいとくじは)で、1616年(元和2年)に璧英禅師(へきえいぜんじ)による中興開山(ちゅうこうかいざん)と伝えています。国の重要文化財である元弘(げんこう)の板碑(いたび)をはじめとして多数の板碑や多くの考古・民俗資料を収集し「ちらかし寺」と呼ばれました。「徳蔵寺板碑保存館」を設立し、それらの貴重な資料を公開しています。(諏訪町1丁目26番地)
1651年(慶安4年)阿山呑碩和尚(あさんどんせきおしょう)によって開山されたといわれています。樹齢700年になるケヤキ、樹齢600年になるカヤが山門の左右にあります。市内で最も古い庚申塔や、四国霊場巡りと同じ功徳が得られるという新四国石仏など文化財も多くあります。(久米川町5丁目24番地)
化成小学校の隣にあり、御祭神はタテミナカタノミコト(建御名方命)です。まつり囃子は、神社の祭礼などの時に、太鼓、笛、鉦(鐘)、舞などによってはやす 民俗芸能で江戸末期頃から盛んになって多くの流儀があります。昭和44年に市無形民俗文化財に指定されています。(諏訪町1丁目4番地)
府中街道に面し武蔵野天皇と呼ばれるこの神社はスサノオノミコト(牛頭天王)を祀っています。7月15日に近い土・日曜日が例大祭です。神輿や山車・大太鼓が街道をねり歩く近隣でも有名な祭りです。正福寺の境内に神輿の格納庫の仮宮があり、神仏混淆(しんぶつこんこう) の名残を感じさせます。(栄町3丁目35番地)
ヤマトタケルノミコト(日本武尊)を祭神としていますが石造の不動明王を祀り、秋津のお不動さまとして、近郷近在の人々の信仰をあつめています。境内には 「力石」という、力比べや大人の仲間入りをする力だめしの大きな石が奉納されています。本殿の正面、側面は精巧な彫刻が施されています。(秋津町5丁目27番地)
秋津町の武藤芳男家から移築された入母屋(いりもや)づくりで四ツ間型(よつまがた)という江戸後期(推定)の典型的な武蔵野の農家です。昭和59年に復元し「かやぶき民家園」として市民に公開され、四季折々の年中行事や、各種の体験学習を通して多くの皆さんに親しまれていました。
東村山市有形民俗文化財指定されていましたが、30景選定から5年後の平成11年6月に火災により焼失してしまいました。その敷地内には「八国山たいけんの里」が建設されました。(野口町3丁目48番地)
狭山丘陵東麓から前川・後川をはさみ鎌倉街道一帯に広がっています。新田義貞(にったよしさだ)の鎌倉攻め、1335年(建武2年) 北条高時(ほうじょうたかとき)の遺子・時行(ときゆき)と足利尊氏(あしかがたかうじ)の弟・直義(なおよし)らの戦いや、1352年(正平7年)の武蔵野合戦などの幾多の戦場となりました。頂上にある小さな塚は将軍塚と呼ばれています。(狭山丘陵裾野一帯)
明治27年、川越と甲武鉄道の国分寺を結ぶ川越鉄道が着工し、東村山に工事用の仮設駅がつくられました。翌28年全線が開通し、仮設駅は撤去されることとなりましたが、これからは鉄道が必要と考えた住民の運動で東村山停車場がつくられました。東村山の発展のもととして記念した石碑です。(東村山駅西口)
詩人の草野心平(くさのしんぺい)氏は昭和38年から秋津に住み、あたりを自然のままという意味の「五光」と命名しました。その後、秋津橋のたもとに氏の筆により「光あまねし」の木柱が立てられましたがその墨痕も薄くなったため、昭和56年11月に地域の人々により、石の記念碑が立てられました。(秋津町4丁目15番地)
〒189-0021 東村山市諏訪町1丁目6番地3(たいけんの里:〒189-0022東村山市野口町3丁目48番地1)