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縄文の風景・下宅部遺跡

更新日:2011年2月15日

CONTENTS

6号網代出土状況

縄文時代後期から晩期(約3500から3000年前)の川の流れ跡とともに、当時の人々の水場での活動の痕跡をしめす発掘資料を展示しています。 特に網代と呼ばれる木や竹で編まれたものについては、現在までに発掘されているすべての、発掘状況および編み方を、展示しています。

水辺の作業場ー7号水場遺構

水場の遺構写真

北の狭山丘陵からの支流と、西からの本流とが合流して若干落ち込む地点で、東西15メートル、南北10メートルの範囲で、直径20から30センチメートルの加工した丸太材10数本を「コ」の字形に設置し、杭で固定した施設が発見されました。この施設 は、水を湛える掘り込みと、川の流れを調整するために流れをさえぎるように置かれた丸太材によって構成されています。

 主流側では壁をつくり、支流側では2カ所の導水路を設けて水量の調節を行なっていたと考えられ、小規模ではあるものの、堰状を呈していました。また、支流側の中央部北側には、直径約50センチメートル、長さ約50センチメートルのムクノキを厚さ約5センチメートルで完全に刳り貫いた「刳り貫き材」があります。これは、直径約60センチメートルの穴を掘り、刳り貫き材をそこに設置し、砂礫と粘土で固定したもので、開口状態で使用されていたものと思われます。

 トチノキ・ドングリ類のアク抜きや植物繊維の水さらし、シカ・イノシシの解体、川漁など多岐にわたる活動が7号水場遺構およびその周辺で行なわれていたことが、出土遺物から想定されます。

縄文時代の編み物・網代

1.遺跡出土の編み物

縄文時代の編み物の写真

縄文時代の編み物の編み方には、「網代編み」と「もじり編み」があります。網代編みは、薄くさいた木や竹などを、縦横交互に越えさせたり潜らせたりして編む方法です。斜めに編まれたものもあります(第1,3図)。もじり編みは、片方に対してもう片方をもじる(ねじる)ようにして編む方法です(第3図)。編み物はカゴやザル、敷物などで、遺跡から完全な形で見つかることは稀です。木の実や山菜の採取・アク抜きをしたり、漁撈具などとして使われていたと思われます。また、山形県高畠町押出遺跡の縄文時代前期の竪穴住居跡の床面からは、敷物と思われるものが見つかっています。

 下宅部遺跡からは、平成12年3月現在、28点の網代編み製品が出土しています(5号は欠番、すべて縄文時代後期のもの)。このうち、16号網代については、網代編み製品に付随する装飾部分である可能性がありますが、もじり編みが認められます(第2図)。そして、下宅部遺跡の主体となる時期である縄文時代後期中葉(約3,500年前)は、土器をつくる際に底に敷かれた網代の圧痕が多く認められる時期なので、カゴやザルではないものの、敷物の編み方にどのようなものがあったのかを、明らかにすることができます。

 今後の詳細な検討・研究が必要ですが、現在のカゴやザルなどのように、用途や大きさ、部位に応じて異なる編み方をしていた可能性が高く、縄文時代の技の確かさがうかがえます。また、下宅部遺跡の網代に限らず、各時期・各地域の網代がどのような素材(材質・幅など)でどのように編まれていたのか、といったことを検討することによって、つくられた時期や地域による差が、今後明らかになるかもしれません。

2.カゴやザルの編み方

 出土した網代のほとんどは、縄文時代の河道の支流、主要調査地点C・Dから発見されています。水際で見つかったこれらの網代は、どのように使われていたのでしょう。現代の民具と見比べると、カゴやザルに同じような編み方が見られます。

 カゴやザルの編み方には幾通りかの方法がありますが、底から編みはじめ胴部、縁(口)へと作っていきます。底の編み方には網代底と菊底があり、前者は「2本越え2本潜り1本送り」等の網代編みにした底から、胴部に進む段階で無理に曲げざるを得ず、盛り上がりを作りながら編んでいきます。展示パネルの8・26号網代を見ると、編み方の変わる部分に盛り上がりが見られます。これは無理に曲げて形作ろうとしているからで、現代の民具4・5・6・9(次ページ参照)にも同様なものが見られます。一方後者は、編みはじめを放射状に並べて、それを芯に交差させながら胴部を編んでいきます。両者の胴部は、展示パネルの3・8・13号網代「1本越え1本潜り1本送り」であることがほとんどです。

 縁にも種類がありますが、巻縁と当縁に大きく分かれ、現代の民具でいうと2・3・4・5・8・9が前者で、1・6・7は後者です。巻縁は前述した編み方でいうと「もじり編み」で、展示パネル13号網代では縁以外にも使われています。
 いずれにしても、部位によって編み方を使い分け、道具を作っていたことことがうかがえます。

3.出土した網代と現代の民具を比較してみよう

 ここまで見てきたように、編み方はさまざまです。下宅部遺跡から出土した網代の展示パネルと、現代の民具に見られる網代編みを見比べてみましょう。3,500年前から現在に至るまで、同じ技法で編まれていることが分かります。

黒曜石のみち

関東・中部地方の主な黒曜石産出地位置図

黒曜石(こくようせき)は火山から噴出したマグマが地表面付近で急激に冷された結果、生じる火山ガラスで火成岩(かせいがん)の一種です。キラキラとかがやくことから、その昔、人びとは黒曜石が空の星から降ってきたものだと考えていました。そのため、長野県の黒曜石の産出地(原産地)の地名には、「星ヶ台(ほしがだい)」、「星糞峠(ほしくそとうげ)」など「星」がつくものがみられます。黒曜石は火山の活動によって生成されるため産出地が限られており、日本全国どこでも採取できるわけではなく、当然、東村山市では黒曜石を採取することはできません。しかし、市内で調査された旧石器時代、縄文時代の遺跡からは黒曜石製の 石器が出土しています。これらの黒曜石はいったいどこからきたのでしょうか。

 黒曜石は確かに黒く、かがやく石ですが、どの黒曜石も同じように黒いわけではありません。見た目でもその違いが明らかなように漆黒のものから透明に近いものまであり、中には灰色に近い縞模様のものまであります。また、白色の粒が含まれるものと含まれないものがあります。このような見た目の違いは産出地の違いをほぼ示しており、以下のような特徴で産出地を推定することができます。透明度が高く、白色の粒がほとんど含まれない黒曜石は長野県で採取できるもので、漆黒で透明度が低く、白色の粒が多く含まれるものは神奈川県の箱根で採取できるものといえます。また、灰色に近く縞模様のようになっているものは伊豆半島の柏峠(かしわとうげ)で採取できる黒曜石といえます。しかし、なかには例外もあり、見た目だけではどこの黒曜石なのか推定することができないものもあります。このように肉眼では違いがわからないものを理化学的に分析することで、より確実にその産出地を推定することができます。

下宅部遺跡出土の縄文時代黒曜石製石器

すべての物質が元素によって構成されていることはいうまでもありませんが、物質にX線をあてると、その物質に含まれる各元素特有の波長をもつ蛍光(けいこう)X線が発生します。この蛍光X線の波長とその強度から元素の種類とその濃度がわかります。この原理を応用した分析方法が蛍光X線分析法で、黒曜石の産出地で採取した原石(げんせき)と遺跡から出土した黒曜石製の石器を分析し、それぞれの黒曜石に含まれる元素の種類とその濃度を比較することにより、遺跡から出土した黒曜石がどこの産出地のものかを推定することができます。なお、この蛍光X線分析法は「非破壊」で分析することが可能なことから黒曜石に限らず、考古学の分野で大いに活用されています。

下宅部遺跡出土の縄文時代黒曜石製石器

下宅部遺跡から出土した縄文時代後・晩期(約3,500から3,000年前)の黒曜石製石器を蛍光X線分析した結果(国立沼津工業高等専門学校望月明彦氏に分析を依頼)、諏訪星ヶ台(すわ ほしがだい)[長野県]、和田鷹山(わだ たかやま)[長野県]、神津島恩馳島(こうづしまおんばせしま)[東京都]、和田小深沢(わだ こぶかさわ)[長野県]、天城柏峠(あまぎ かしわとうげ)[静岡県]、高原山甘湯沢(たかはらやまあまゆさわ)[栃木県]、蓼科冷山(たてしな つめたやま)[長野県]、和田土屋橋西(わだ つちやばし にし)[長野県]、和田土屋橋北(わだつちやばし きた)[長野県]、箱根畑宿(はこねはたじゅく)[神奈川県]の黒曜石を利用していたことが明らかとなりました(点数の多い順に産出地を列挙)。縄文時代の後・晩期と二つの時期にまたがるものの、下宅部遺跡の縄文人は特定の産出地に限ることなく複数の産出地の黒曜石を利用していたことがわかります。下宅部遺跡から直線距離で長野県にある和田エリアまでは約120キロメートル、栃木県の高原山までは約125 キロメートル、神奈川県の箱根までは約70キロメートル、東京都の神津島までは約180キロメートルあります。神津島は海によって隔てられているため舟がなければ島に行くことができません。おそらく丸木舟などで島に渡ったのでしょう。下宅部遺跡の縄文人が直接それぞれの産出地に黒曜石を採取しに行ったのか、それとも産出地に行くことなく黒曜石を入手したのかは明らかではありません。しかし、仮に交換などの方法で黒曜石を入手したとすれば、縄文時代の後・晩期にはすでに広い範囲で物流のネットワ-クが形成されていたことが考えられます。どのような「黒曜石のみち」があったのかは今後の研究課題といえます。

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