このページの先頭ですサイトメニューここから
このページの本文へ移動

  • くらしの情報
  • 子育て・教育
  • 健康・福祉・医療
  • 施設・窓口案内
  • 市政情報
  • 東村山の楽しみ方

サイトメニューここまで

本文ここから

奈良時代の国道・東山道

更新日:2011年2月15日

東山道武蔵路(東村山市本町2-5)(縦の2条の溝が側溝

両脇に側溝をもつ幅12mの奈良時代の国道が、東村山市本町2-5で発見されました(第4図)。この道「東山道」は律令制により中央と地方を結ぶ官道のひとつで、奈良の都と、そちらの方から見て、東の山のある地域とを結ぶ道です。これらの道を通って、国家の方針は全国に伝えられていました。東村山は武蔵国に属しており、現在の府中市に政治・経済の中心地である国府が、国分寺市に信仰・文化の中心地である 国分寺・国分尼寺がありました。

 今回見つかった東村山市内を南北に走る道は、武蔵国府と群馬県の上野国府を結んでほぼ直線的につくられた道で、「東山道武蔵路」と呼ばれています。武蔵路は、これまで府中・国分寺・小平・所沢と、東村山市の南北の市で見つかっており、市内にも通っていることが確実視されていましたが、これまで発見されていませんでした。今回発見の道路がまっすぐ北に向って伸びているとすると、東山道が既に見つかっている所沢市久米の東の上遺跡にぶつかり、狭山丘陵の東端、将軍塚のやや西のあたりを道路が通っていることになります。

第4図

宝亀2年(771)に、東山道に属していた武蔵国の東海道への所属替えがあったことが、『續日本紀』に記されています。
これにより、上野ー武蔵という連絡ルートが、相模ー武蔵ー下総にかわりました。しかし、天長10年(833)に、多摩郡・入間郡の境に飢えや病気に苦しむ旅人の救護施設「悲田処」が設置されたという記事が『續日本後紀』にあることや、考古学的結果から、武蔵路が10世紀代にも機能していたことが明らかになっています。 今回の発見により、以前より具体的なルートが推定できるようになりましたが、さらに明らかにしなければならない課題(下記)があります。

  • 道路の時期的な変遷、および中世の鎌倉街道との関係
  • 道路の構造の詳細な解明(側溝や硬化面の幅や深さ等の形態、硬化面の成因、また、河川部や丘陵部でのあり方)
  • 悲田処の位置
  • より具体的なルートの解明、等

(展示解説シート)

このページに関するお問い合わせ

教育部ふるさと歴史館
〒189-0021 東村山市諏訪町1丁目6番地3
電話:直通:042-396-3800  ファックス:042-396-7600
この担当課にメールを送る(新規ウィンドウを開きます)
教育部ふるさと歴史館のページへ

本文ここまで


以下フッターです。
東村山市役所 〒189-8501 東京都東村山市本町1丁目2番地3 電話:042-393-5111(代表)

市役所への交通アクセス 窓口開設時間

Copyright © Higashimurayama City. All rights reserved.
フッターここまでこのページのトップに戻る