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1.説経節とは?

更新日:2011年2月15日

せっきょうぶしって?

かつおぶしみたいな?

ちょっとちがう気がするんだけど

じぶんだってわかんないくせに

おせっきょうとかんけいあるんだよ、たぶん

おこられるってこと?

そういうわけでもないんじゃないかなぁ

けっきょくわかんないってことでしょ?

「説経」と「説教」

「説経」とはお坊さんが経典の意味を説いて聞かせることで、「宿題を忘れて先生にこってりセッキョウされた」という場合は「説教」ですが、「説教」も「説経」の意味で使われることもあります。辞書によると、「説教師」は神仏の教えを説く人のことで、「説経師」は経文を説き聞かせる人と、説経節(注:初代若松若太夫の時代には、「説經(経)節」と「説教(教)節」の二通りの記述が見られる)を語る人の二通りの意味があります。小学館の『日本国語大辞典』によると、「説経節」は「説経浄瑠璃で語られる曲節。説経浄瑠璃と同じ意にも用いる」とあり、「説経浄瑠璃」は「語り物の一種。仏教の説経が歌謡化し和讃・平曲・謡曲などの影響を受けて、江戸初期に流行した民衆芸能。始めは大道芸で鉦をたたきながら語られたが、次第に簓・胡弓・三味線をとりいれ、操り人形劇とも提携して興行化された」とあります。これらの説明の中には「説教」の字は見えません。

推論ではありますが、初代が敢えて「説教(教)節」としたのは、従来の「説經(経)節」の改良したものを演じるという意味で用いたのではないかと考えらます。もう一点、娯楽のためだけの歌舞音曲ではなく、国民教育に役立つものであるという側面(娯樂の間に正路邪道の紛糾を鑑別し知らす知らすの間に徳器を涵養するに足る國民教育上好適の聲樂)を強調するために「教」の字を使ったのではないかとも考えられます。また、初代が活躍していた当時は一般に、「説経」と「説教」を明確に使い分けていなかったという説もあるようです。いずれにせよ、観客に向かって「お説教」をする意味で使ったのではないはずです。なお、三代目若松若太夫は「説経節」を使っています。

「説経節」の「節」とは何か

 では、「説経節」の「節」とは何でしょうか。節足動物、文節、季節、浪花節、鰹節、節目、関節、苦節、節介、節会、節操、節分……と「節」を使った言葉はたくさんあります。それらから「節」の統一的なイメージを導き出すのはちょっと難しいですね。文節や季節、節目、関節などからは境界部分、区切りをさすことがイメージできますし、浪花節ではメロディがイメージできますが、鰹節は節が何を意味するのかちょっと想像できません。鰹節と説経節はほとんど何も関係なさそうなので、その意味を探ることはやめておきましょう。「説経節」の「節」はもちろん、浪花節の「節」と同じで、旋律を意味します。「ちょいとヒトフシ唄っておくれ」などと言うときの「フシ」です。言葉をただ出すだけではなく、抑揚をつけて、リズムに乗せること、それを「節」と言います。

 つまり、「説経節」とは、「説経」と「節」、経文を説き聞かせるときに、リズムをつけたもの、と言えるでしょう。しかし、物事はそう単純ではありません。説経節はリズミカルに経文を説き聞かせるものではありません。そのような形態の時代もあったようですが、経文とは少し距離を置いた、例えば仏教説話であったり、社寺縁起であったり、神仏の霊験譚であったりで、仏典をそのまま語り聞かせるものではないのです。

「説経節」の歴史

「説経節」は仏教を広めるため、僧侶が伝説などに脚色を加え、仏教の声楽を基礎として発生した音曲で、『平家物語』で有名な琵琶法師も、ここから生まれてきたものと考えられています。説教節は仏教に帰依させるための芸能という性格から次第に離れて、世界観や思想性などの背景は仏教色を残しながらも、観客に感動、特に哀切を伝える「物語」こそが前面に押し出されたエンターテイメントとなっていったのです。

 説経節は江戸時代の初期、寛永年間に関西で流行し、江戸でもはやっていました。しかし、同じ語り物芸能の義太夫節(竹本義太夫が大成した、物語の筋、せりふに三味線の伴奏を付けた語り物で、操り人形と結びついて発達。竹本座では近松門左衛門を座付きの作家とし、『曽根崎心中』や『国性爺合戦』、『女殺油地獄』などを生み出し、大変流行した。一般に、浄瑠璃というとこの義太夫節をさすことが多い。これに対し、説経節は古浄瑠璃系とも言われる)が爆発的に流行し、説経節はそれに押される形で、特に関西で勢いを失っていきました。

 江戸でも説経節は次第に衰微したのですが、18世紀末ごろ、山伏の祭文語りと結びついて復活します。庚申講や念仏講に招かれて説経節を披露していたようです。それと同じころ、江戸の本所で米屋の米千(薩摩若太夫)の説経と、その隣家の按摩さんの三味線が伴奏として結びつき、現在に続く薩摩派の説経節が生まれました。若松若太夫の若松派はこの薩摩派から分かれたものです。

「説経節」の代表作

 説経節の代表的な作品には「刈萱」「山荘太夫」「しんとく丸」「小栗判官」などがあります。特に「山荘太夫」は明治の文豪、森鴎外(注:「鴎」の字は正しくありませんが、正しい文字は機種依存文字で、インターネット上では表記できませんので、「鴎」の字をあてました)が『山椒太夫』として小説にしており、有名です。内容は「山椒太夫」という長者が没落する話ですが、実質的な主人公は安寿と厨子王で、その姉弟愛がテーマとなっています。無実の罪で流された父に会いに行く途上、佐渡で人買いに騙され、母は佐渡へ売られ、安寿と厨子王は山椒太夫に売られます。山椒太夫は彼らを奴隷のように酷使するので、安寿が厨子王を逃がします。けれど、そのせいで安寿は拷問を受けて死んでしまいます。その後、いろいろな経緯の末に最後に厨子王が山椒太夫を懲らしめて仇を討つ、という話です。説経節はこのような、哀切の物語を節にのせ、三味線と合わせながら語る芸能なのです。

もっと気軽に、手軽に説経節の物語に触れてみたい、という方は、漫画はいかがでしょうか。入手性はあまり高くありませんので、どこの書店にも置いてあるものではありませんが、ちくま文庫近藤ようこさんが描いた『説経 小栗判官』があります。説経節の小栗判官を忠実に漫画化したもので、小栗判官がどんな物語なのかがよくわかると思います。現在の人気漫画のように過剰な描写はなく、静かで、それでいて情感あふれる作風ですので、どなたでも受け入れやすいのではないでしょうか。

若松会での「説経節」の説明

 参考資料として、以下に若松会(渋沢栄一嘉納治五郎村井弦斎らの協力によって設立された若松若太夫の後援組織)による説経節の説明を一部転載いたします。

 若松若太夫の説教節浄瑠璃は、實に今より一千有餘年前、桓武天皇の御宇、空海上人が佛法弘通の爲めに、聲明律を基として作曲せられたるに始まり、後世の一中節、義太夫、長唄、常磐津、清元の如きを始めとし、あらゆる日本の聲樂を産み出せる、最古の聲樂であつて、始めは主として通俗の經文とも云ふべき、何人にも判り易き因果應報の理を、佛事供養などの席に招かれたる、法師等に依つて唄はれたものである。
 宇多天皇の皇子敦實親皇と申せし方は、最も管弦の道を好ませられ、殊にその藝に勝れさせ給ひ、中にも琵琶に御堪能におはしまし、親ら流水啄木の曲と云ふを御作曲なさせられたのであつたが、秘して他に御傳へなさせられなかつたのを、親皇の雑色であつた蝉丸と云へる人は、性来頗る琵琶を好み、何時ともなしにその技を會得し、遂にその妙を得て、後に親皇に請ふて隠者となり、琵琶によつて悲壮にして興味ある、説?ヘ物語をなしたとのことである。

 後嵯峨天皇の寛元年間、園城寺の僧にして説?ヘ節を始めたものがあり、藤原信西の子澄恵は、嵯峨御所御免音曲諸藝の司であつたと云ふ。志保之理に和讃は諸講式から起つて、後世極樂院の叩鉢が説教節に變へて、丹波國金かき地蔵や善光寺刈萱堂の故事縁起などの傳説を説?ヘ節にして唄ひ、それ以来戦場の模様又は神佛の霊験などを、盛んに作曲して演奏したと傳へられて居る。

 室町時代の末期、琉球から始めて蛇皮線が渡来したので、園城寺の僧が織田信長に召されて、即ち蛇皮線によつて説教節を演奏した。これが抑も三味線を日本の聲樂に合調せしめた濫腸であつて、これに依て澤角検校などの語つた所謂初期の浄瑠璃よりは、遥に興味あるものとなり、説教浄瑠璃師と云ふ専門家も出で、平民的音樂として最もよく行はれるに至つた。その後石村近江守に依て、蛇皮線が改良されて三味線となり、即ち一般浄瑠璃にも三味線を用ふることになつたのである。

 慶長、元和の頃には、朝廷の允許を得て、説教節に依て繰人形芝居を興行することが盛んになり、日暮八太夫は京都四條河原に於て、説教與八郎は大阪生玉社境内に於て、何れも天下一なる額を掲げて、芝居を興行して盛大を極め、江戸に於ては天満八太夫座、天満七太夫座、佃島の結城座など軒を並べて繁昌を極めたのであつた。――家元若太夫所蔵の古文書中に日暮八太夫が音曲諸藝の司として名跡相續を許された御墨附がある。

 説教節の家元は薩摩浄雲以来、代々薩摩を名乗つて居たのであつたが、朝廷の御允許を得て八太夫が京都四條河原で、人形芝居を興行することになると、洛中洛外の人々が、その美音と興味とに恍惚して、思はず歸るを忘れて日を暮らして終うと云ふ所から、何時とはなしに誰云ふとなく、日暮らし八太夫と稱するに至り、その後代々の家元は薩摩の外に日暮を名乗ることになつたのである。そして八太夫の門下から、日暮小太夫、説教與八郎の如き斯道の名人を輩出した。

 當代家元から十餘代前の家元門下の半太夫は、江戸に出て本所四ツ目米仙に『傳へ説教祭文』と云ふ一派を始めて繁昌し、又、五代前若太夫の門人で峯太夫と云ふ者は、仲間の規約に背いたと云ふので破門され、名古屋に遁れて岡本美根太夫と稱し、説教節に新内節を加味した源氏節なるものを起した。明治六七年頃當代若太夫の師の、日暮龍卜の家に寄宿して居た、浮れ節語りの浪花亭駒吉なる者は、長く龍卜方にあって、カンチガヒ地節と云ふ節を加味して、浪花節を作つた。これが抑も浪花節の鼻祖である。

 斯くて平安朝時代より漸次發達して、徳川時代に入つてその全盛を極むるに至つた説教節も、徳川時代の中葉から、江戸浄瑠璃の勃興に壓倒され、年と共に衰退の悲運に入り、當代若太夫の師の日暮龍卜の如きは、東都家元でありながら、江戸に在つては藝を以て衣食することさへ出来ぬまでに窮迫し、地方に出て悲しき流轉の旅を續け、生涯不遇の中に辛ふじて藝道を固守して逝いたのである。

 この龍卜は東都家元として、始め薩摩太夫と稱したのであつたが、流轉の旅を續けて奥州白河に至り、一夜の興行をこの地に催した時、恰も戊申(注:戊辰か)戦役直後の事とて、會津藩に近きこの地方の人々が薩摩を憎むこと甚だしく、龍卜が掲げてあつた『薩摩若太夫』の行燈は、薩摩なる文字あるために何人かの爲に斬り破られた。茲に於て餘義なく傳来の薩摩と云ふを廢して、會津の地に親しみあり且つ文字に吉意ある『若松』に改め、又の名を古来よりの日暮を繼いで、日暮龍卜と稱したのである。――若松會編纂「説教浄瑠璃の沿革」

 要約すると、次のようになります。

 説経節は千年以上前に空海上人が仏教を広めるために作曲し、これが義太夫節や長唄などのあらゆる日本の声楽の元となったもので、最初は経文を一般の人々にもわかりやすいように、因果応報の話として、仏事の席で語られていました。管弦に多才であった宇多天皇の皇子敦実親皇が作曲した秘伝のものを、蝉丸という人が琵琶を用いて説教物語を語りました。その後、神仏の霊験や各地の伝説、社寺縁起などを題材にして、説経節が作られていきます。室町末期になると蛇皮線が沖縄から入ってきて、これを用いることにより、それまでよりも一段とエンタテイメント性を帯び、一般的な音楽として人々に受け入れられます。のちに蛇皮線が改良されて三味線となり、これにより現在の形となります。江戸時代に全盛時代を迎えたものの、その後江戸浄瑠璃などに人気を奪われ、初代若松若太夫の師匠である家元、日暮龍卜も芸だけで生計を立てることはできない状態でした。また、「若松」の名はこの日暮龍卜から始まったもので、元々日暮龍卜は「薩摩太夫」を名乗っていたものの、白河の地で、白虎隊の悲劇があった会津若松に近いこともあって「薩摩憎し」の住民感情があり、「薩摩」と名乗っていたのでは興行もままならなく、「若松」と名乗ったといわれています。

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