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2.若松若太夫とは?

更新日:2011年2月15日

1.若松若太夫の評判

 歌舞伎役者や落語家などと同様に1つの名跡で、初代から三代までの「若松若太夫」が存在します。初代の本名は松崎大助です。今回の展示でフォーカスしているのは初代です。初代については以下のような記事を見つけることができます。

(説経節は)義太夫節の勃興とともに、都会特に京阪では衰退したが、関東では今なお命脈を保ち、秩父人形や八王子車人形で語る。外題は「小栗判官対面の段」「山荘太夫栗畑」「日高川清姫怨霊の段」「菅原伝授手習鑑松王屋敷の段」位が現行の主なもので、近代の名人若松若太夫も明治時代までは、村祭の人寄せに語り歩いた。

――柳田國男監修・財団法人民俗学研究所編『民俗学辞典』東京堂出版

若松派の始祖、先代若太夫は美声を以て一世を風靡した。大正五年二月二十七日、帝国劇場公演。「勧進帳」「刈萱」。その美声は今も耳底に残る。当時帝劇所属の常盤津松尾太夫。次いで松竹の清元延寿太夫・何れも美声を以て鳴る。もし説経節が伝統の歌舞伎音曲の中にランクされていたならば、若太夫こそは直ちに歌舞伎舞台へ迎え入れられたであろう。彼の説経節は改良説経節と言われ、新内の奔放なリリシズムを巧みに取り入れたもの。その点で、新内岡本美根太夫の説経源氏節と一脈通じるものがあった、と言われている。

――永田衡吉『生きている人形芝居』錦正社

初代若松若太夫

詳しく記述されているので、一々を解説する必要はないかもしれませんが、『民俗学辞典』のほうは、「皆さんもご存じの、あの名人若松若太夫も、明治の昔には村々の祭で演じていたようで、それは随分贅沢な村祭だったんじゃないだろうか」というふうに読み取れます(かなり憶測が入っていますが)。いきなり何の説明もなく「近代の名人」とだけ冠を付けて紹介されていることから、少なくとも芸能に興味がある人々にとって、『民俗学辞典』が出版された1951年前後においては、知らない人などいない超有名人だったことが窺えます。

現在の帝国劇場
現在の帝国劇場

著名な劇作家・芸能史家である永田氏のほうは、元々は国立劇場で行われた2代目若松若太夫の公演解説用に書かれた文章で、『生きている人形芝居』に所収されたもの。公演は昭和五十八年三月なので、「耳底に残」っている大正五年の帝劇公演は、実に70年近く経過しており、それだけ昔の公演であっても、耳から離れない「美声」であったと読み取れます。大正五年の帝劇の公演については、以下の記事もあります。

「勧進帳」と「石童丸」と、二段立て続けの弾語りで、腕と喉とに捩をかける、豊富な声量、古風な裡に味のある節廻し、聞き馴れたものも馴れないものも、一緒になって喝采した、「勧進帳」は謡や長唄とすつかり章句の変つて居るのが珍らしい、村井弦斎氏の厳訂に係るといふだけあつて、昔の趣を失はぬ中に名句佳句の続出するのも嬉しい。「石童丸」では満場の夫人客に手拍を絞らせた。

――報知新聞「帝劇の若松会」大正5年2月28日

廿七日の夜帝劇で説?ヘ節の會があつた。後援者は若松會で一階から三階まで、一ぱいの大入は大した景気であつた。家元の若太夫は「安宅勧進帳」と「石童丸」の二席を語つた。義太夫の逆輸入で節が大分複雑になり。三味線の手も多くなつて、その昔の説?ヘ浄瑠璃とは大分距離が出来たやうだが、複雑になつただけ、それだけ、面白くはなつて居る。殊に太夫は声量に富んで、婦人のやうな綺麗な音も出るので、強い方面と優しい方面とを自在に語り分け。

――萬朝報「帝劇の説?ヘ節」大正5年2月28日

若松若太夫の説?ヘ節を帝劇で聴きました久しく中絶の姿で居た此の節調の再興は聴者をして寧ろ一種の新味を覺えさせます出物は得意の「石童丸」で野趣横溢の氣が場に充ち「石童御目を醒し」あたりから「鹿の巻筆噛み下す」のカンとウラ聲との變化「逢せて給はれ」のケレンなど最も其特色を發揮しました絃は節と節との間を縫ふ所に地合の面白さがありますが「……泣く泣くも四邊の草花折取りて」の弾込みに變つた響を聞かせました、蔭の連弾きのカスメ加減も注意です要するに複雑らしくして而も単調に移る此節は部分的に於て沈痛の快感を味はするけれど段物の通になるとチト倦怠を催さする嫌の無いでもありません

――國民新聞「説?ヘ節」大正5年2月29日

細い咽喉を聞かして急に太い調子に變る斯んな所で盛に喝采を受けて居る 音量が充分にあつて節廻しの自由な事雲右衛門(注1)と呂昇(注2)をチヤンボンにしたやうで而も長き一段の間白湯ひとつ飲まずに語つて退けるえらさは舌を巻いた

――都新聞「説?ヘ節の若太夫」大正5年2月29日

注1:雲右衛門=浪花節の名人。義士伝を語って人気を博し、一時代を築いた。民衆の浪花節に対する人気を不動のものにした。
注2:呂昇=娘義太夫の名人。当時の娘義太夫の流行はこの人の人気によるもので、多数の「追っかけ」を生み出した。

若太夫は「安宅勧進帳」と「石童丸」とを語つたが豊富な美音で殊に佳い出来どつちも説?ヘ節の趣きをよく現はしてしばしば喝采が繰返されたが金色燦然たる此劇場で恁ういふ原始的な藝が演ぜられた處に一種奇異な對照を感じた

――東京時事新報「帝劇の説?ヘ節」大正5年2月29日

2.若松若太夫の生涯

和暦 西暦 初代の歴史 世の中の動き
明治7年 1874 埼玉県大里郡石原村(現・熊谷市石原)の農家に生まれる。父の松崎清蔵は祭文の名人であり、祖父の松崎源蔵は観世流の謡曲・仕舞を修めており、代々芸能に造詣が深い家であった。 江藤新平刑死
明治18年 1885 北埼玉郡外田ヶ谷村(現・騎西町)の日暮龍卜(本名・漆原四郎次)に入門する。 天津条約締結
明治28年 1895 10月、師匠龍卜没。三代目若松辰太夫(本名・関口幸平)の門下として修行を続ける。 下関講和条約
明治41年 1908 3月19日、東京烏森の新橋倶楽部で開かれた第五回美音会音楽会に出演する。 国木田独歩没
明治44年 1911 8月、上京。最初は大塚に住むが、すぐに小石川へ引っ越す。この時期から若松会旗揚げの時期まで、嘉納治五郎が援助する。また、この時期、芸能活動を制限し、修行に専念する。 幸徳秋水死刑
大正5年 1916 2月27日、事実上の旗揚げとなる若松会第1回公演が帝国劇場にて開かれる。第2回は同年12月に明治座で行う。第3回は翌年、丸の内有楽座で行う。この頃からレコードの吹き込みやラジオ放送、公演と多忙な日々を送る。 憲政会発会
昭和11年 1936 12月、上野精養軒で開かれた聖徳太子奉讃会において、説経節を披露。「武蔵大掾」の掾号を久邇宮家より許される。 二・二六事件
昭和12年 1937 滝野川から新居の板橋区常盤台へ引っ越す。のち、日中戦争が勃発し、軍国調の説経節がもてはやされるようになる。しかし、戦争が激しくなるにつれ、説経節を演ずることが次第に困難になってゆく。 日独伊防共協定成立
昭和20年 1945 芸能活動を断念し、熊谷へ疎開。農業に励む。 ポツダム宣言受諾
昭和21年 1946 横瀬のふくさ人形の公演で演劇史研究家河竹繁俊と出会う。河竹は帰京後、初代の消息を「週刊朝日」で紹介する。同年9月、六男の寛(ゆたか)に二代目若松若太夫を襲名させ、自分は「若松武蔵大掾」を正式に名乗る。 日本国憲法公布
昭和23年 1948 6月、早稲田大学演劇博物館で公演、大盛況となる。9月、体力が急に衰える。11月24日、生家の土蔵の2階で静かに息を引き取る。 昭和電工疑獄事件

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